認定番号
005
区分
類別
所在地
埼玉県和光市広沢2-1 理化学研究所構内
所有者・管理者
国立研究開発法人 理化学研究所
範囲と内容
3号サイクロトロン電磁石(モニュメント)、およびその設計図面
年代
1953年
文化財指定等
特になし
認定理由
本件は、理化学研究所で戦後に再建された加速器である。戦前期に仁科芳雄らによって建設されるも戦争で失われた1号機とほぼ同じ設計であり、学術上の価値が高い。同時に、戦後日本で人工放射性同位元素の国産供給を本格化させた装置でもあり、日本の加速器科学が研究段階から社会利用へ展開する転換点を示す歴史的装置として重要である。
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Description
解説
日本の粒子加速器の歴史は1934年台北帝国大学(現:国立台湾大学)荒勝文策のチームがコッククロフト・ウォルトン型加速器を完成させ、アジア初となる原子核人工変換実験を成功に導いたことで始まった。一方、より高エネルギーの粒子を得るためには繰り返し加速を用いる方法が有利なのは明らかで、財団法人理化学研究所(理研)・仁科芳雄研究室はサイクロトロンの開発者アーネスト・ローレンスからの支援を受け、1937年に小サイクロトロン(1号機、日本初:磁極直径26インチ)、1943年には大サイクロトロン(2号機、磁極直径60インチ)を完成させ研究を進めた。
残念ながら上記2機はいずれも戦争によって失われてしまう。そのうえ、1948年に理研は解体され、人員も約1800人から約600人と激減。それでも技術を生かした放射線線量計、真空関連機器、そしてペニシリン製造などを行う株式会社科学研究所(科研)として再出発した。
1951年1月に仁科芳雄死去。4ヵ月後にローレンスが初来日した際、残されていた電磁石を見て「これなら電磁石さえあれば出来るではないか」と語ったことが伝えられている。この来訪は、戦後途絶えていたサイクロトロン研究再開への機運を高める一因となった。結果、通商産業省から工業技術等の助成金も得て、同年12月に3号機建設が始まり、翌年1952年12月に再建された。
3号機は基本的には1号機と同じ設計であるが、より高いエネルギー及び収量を得るために幾つかの変更を加えている。それは高磁場を得るための磁極形状の変更、加速箱の内径の縮小などである。これらの改良により到達エネルギーが3.0 MeVだった1号機に比べ、3号機は3.7 MeVとなり、RI(ラジオアイソトープ)および中性子収量は大幅に向上した。
ここからは3号機が実現したRI利用の全国的展開について述べる。1950年に米国の原子炉で造られたRIが第1便として輸入されると、1951年には日本放射性同位元素協会(現 日本アイソトープ協会)が創立され、RIの輸入・頒布を開始。そして待望の3号機が1953年12月に稼働すると、国内製造RIの配布も開始され、RIの供給・利用・技術共有の全国的体制が整備された。RI利用施設は全国に広がり、医学、生物学、農学、工業など多分野へ広がり、生体代謝、核医学、突然変異育種などが放射線利用技術として広く用いられた。1957年に2億円程度だった日本アイソトープ協会の収支規模が、1967年に10億円、1977年には100億円と拡大。その後700億円に達していることからも、新技術であるRIが国民の多くの人々に恩恵を与えていることがわかる。
3号機は1959年9月に定常的なRI供給を終了した。しかし、その後も極めて寿命の短いRIの限定的な製造、中性子を用いた放射線物理・生物学の研究、物理学者たちの実験ビームタイムなどは続けていたが、1970年4月には停止し解体された。主要部材である電磁石、ヨークなどはモニュメントとして保存され、もう一方の主要部材である加速箱は国立科学博物館へと寄贈された。なお、上記モニュメントは2021年に和光市の理化学研究所構内に移設された。
3号機は、戦後日本において初めて人工放射性同位元素の国産供給を本格化させた加速器であり、日本の医学・農学・工業・基礎科学におけるRI利用の発展を支えた。また、その主要構成要素および建設資料が理化学研究所内に現存し、装置の技術的実態と社会的役割を今日まで伝えている。理研3号サイクロトロンは、日本の加速器科学が研究段階から社会利用へ展開する転換点を示す歴史的装置として極めて高い価値を有している。
Location
所在地
Public Access
公開状況
理化学研究所和光地区に設置されている3号機は研究所職員の承認により入構、そして見学が可能である。また年に2回ほど行う一般の方々を対象とした見学会や花見会において見学できる場合もある。